のんびり、考えてみたこと

地元とものづくりと人間についてのことがすき。ものすごく気まぐれに書く。

京都駅は、遠かった

あれは小学校だったか、中学生だったかのとき

ある日、京都駅に行った。


涙目のふてくされ少女。ピタバだけを持って、家を出た。
どこでもいいから遠くに逃避したかった。ただ、それだけ
なんでふてくされてたのかは思い出せんけど、きっと親に言われたことが気に触ったとか。そんなん。

当時の私は一人で電車に乗ったことがなかった。
ピタパというどこでもいける権利を手にして、ちょっとした冒険。
足を運んだぶんだけ、知らない世界が待っていた。

 

何も考えずにたどり着いた京都駅。見えるのは、新幹線。
"これで日本中へ行けるんや”
目の前の世界が、ぐわーっ、と広がって見えた。
私の「逃げたい」は、そこでシュッと、泡になって消えた。

 

その日、世界を広げてくれた京都駅は
今の私からすれば、見慣れた「近所」。新横浜まで行くことさえ、たいして遠く感じなくなった。
けれどその日の出来事は、「旅」だった。
京都駅への道程と、そこにあった日本全国の入り口は、モヤモヤを吹き飛ばした。


ピタパの電車賃はお父さんの口座から落ちるので、
「用もないのに往復の運賃かけてごめん」とは思ったけど、
ムダだなんて思わんかった。
幼い私にとっての、小さくて大きな旅の切符代だったのだから。 

 

世界の大きさは、変わった

家から徒歩5分の小学校、徒歩20分の中学校が、自分の生活のはじっこ。
実家のベランダから見ていた外の景色は、すごーく広かった。

知らないからこそ、この世界は無限に広かった。
自分が生きる世界以外に、外のはどんな世界が広がってるんだろうか、と
未来がわくわくキラキラしてた。

 

今は日本の都道府県も、世界の各国もインプットされてるし、
今いる場所はどんなとこかGoogleMapでだいたいわかる。

行動範囲が広くなって、世界がわかっていくことは、すごく面白いし大切なことやけど、
その規模感を知ってしまうこと、予想できてしまうことは、つまらない。
千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」のように、ある日突然、異世界に行く・・なんてことはありえない。と潜在的に思っている。

でも、「知ること」が悪だ、というわけではない。
世界を「知ったつもり」がつまらない。

 

「知らない」ワクワクは無限にある

ワクワクは、工夫次第。

ひとつは、知る手段を断てばいい。
歩く辞書じゃないから、本当になんでも知ってるわけじゃない。
インターネットという「無限に知ることができる手段」を持っているだけ。

あの頃みたいに、スマホを持たず、目的もなしに、知らない場所へ足を向けてみよう。
看板にあふれる都会だと、既知の場所の情報や、いる場所の距離感がわかってしまうから、
遭難しない程度に情報のない場所へ。


もう一つは、世界はなにも空間だけの話じゃない。
知らないことは無限にある。
今やってる仕事や好きなことを足がかりに、いろいろ知っていく。

そう思ったら、もうワクワクは無限にある。
知らないことのほうが多いんやから。

人生、無限に楽しめる。

なんて幸せで嬉しいことでしょう!

という話。

「決断」を楽しくしたい

未来館でみた、この図を見てギモンに思った。

ん~・・?「決断」って不快なん?


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この図は、「すべての『決断』が不快だ」ということではなくて、「ときに不快になる」という意味かなあと解釈している。

ひとつしか選べない状況の場合は、ほかの選択肢を捨てるということ。「不安」≒「不快」がうまれるのはしかたない。

 

でも、決断することはいいことだと思う!

行動に移せるから。環境が変わるから。決断しなきゃ何もかわらない。

だから、決断したときには、脳で「快」を感じるような物質が発生してほしいと思う。

 

快・不快は何で決まるか?

「快か・不快か」の判断は、「生存に有利か・不利か」の綱引きで生まれる。その有利・不利の基準は、人による。

なぜなら、その基準は経験にもとづくから。

これまでの人生をとおして、変化を繰り返してつくられた。

ちなみに、「快・不快」は見える。扁桃体という細胞の反応でわかるらしい。細胞の反応の規則性が、人生経験でつくられるってふしぎやなあ。

決断=快 と感じるには

じゃあ、「決断すること」=「生存に有利」と感じるためにはどうすればいい?

きっとその判断基準は、子どものときの経験が大きく影響する。

「自分で決断する」ことが「いい結果をうんだ!」という経験を根付かせること。

 

基準のない、子どものために

1.自分で決断すること。

わたしの両親はわたしの習い事・受験・就職などについて、自由に決断させてくれた。私が行きたいところを見つけると、”お~、ええんちゃう?”という具合に。そのことにすごく感謝しているし、自分に子どもができても自由にさせたい。「自分で決めるのが当たり前」という感覚を。

親になんでも強制される家庭環境やと、「自分なんて・・・」自己肯定感が弱くなる、ということもどこかで聞いたなあ。

2.そして大事だと思うのが、それがどんな結果に転んでも、その決断は結果的に良かったと感じてもらうこと

結果がよくなるよう応援し、結果がどうあろうと決断したこと自体をほめることはできる。

 

快・不快の基準はかわっていく

いっぺん「不快」に転んでも変わりうる。ふしぎ。

思えば、わたしはなす入ってるメニュー、絶ッッ対頼むけど、いつからナスがすんごい好きになったんやろ?


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ねぎとか白菜とかエリンギとかも。ぜんぶ子どもの時はおいしいなんてカケラも思ってなかった。

 

大人になって、好みが変わるきっかけは2つあると思う。

①体の変化、かもしれない。

特に「食べること」は、体に物質を直接投下して細胞が反応をおこす行為だから、体の反応のしかたが変わったりしそう。

なんかイイ物質が生まれる体に徐々に変わっていって、「生存に有利」→「ナスおいしいやん!?(快)」になったんかな?しらんけど。

そしてもうひとつが、

②「不快」の経験則がひっくり返るような「好きかも!?」体験

 かなと思う。

 

おとなになったわたしが、「決断」をもっと「快」にするには?

もうある程度つくられた「快・不快」の判断基準も、変えていける。

ただし「決断」という行為で ①体の反応が変わるのは無さそう。「決断」は、食べることほどには身体に直接影響しなさそうだから。

だから、②の「良いかも!?」体験をもっと生むことやな。それには、

  • 「えいやっっ」決断する勇気をもつこと と、
  • その決断を自分で正解にする。いい結果にころぶように力を注ぐこと

を意識していこう。

 
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「決断するといい結果がうまれた!」

そんな経験が積み重なって、決断はたのしいと直感的に思えるほど、

おもしろく過ごしていけそう!

 

分岐点にたったときはたくさん悩むし、固定概念にとらわれるけど、

これからもきまりきったレールはきにせず、選択していこ。

就職をした今も、この選択を正解にするために、吸収して利用しまくってこ〜。

「人助け」の利益

わたしには、昔からとっても憧れている方がいる。
その方は最近まで東京の日本科学未来館で働いていた。
先日はじめてお会いすることが叶って、
「ああ未来館また行きたいなあ・・!」と衝動にかられたので、

こないだいってきた!


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はじめて行ったときも、おもしろくて刺激的で、驚いたのだけれど
今また自分の興味が変わったので、また新しくおもしろいことをいっぱい知れた。
いっこずつ書き留めていく。

今回は、ひとはなぜ「人助け」するのか?ということ。

人間だけができること

それは、未来を想像すること。その未来にむけて動くことができる。

この力によってうまれた人間ならではの特徴の1つが、手助けの自発性「だれかが困っていると、つい手が出ちゃう」。これによって協力関係が生まれる。

チンパンジーと人の違い

チンパンジーは自分からは手助けしない。何も利益が生まれないから。

要求されたときだけ協力する。

京大・霊長類研究所・山本先生のチンパンジー研究のはなし。

www.youtube.com

ストローもってるチンパンジー・パルちゃんに、となりのパンちゃんが“ストロー!くれーーー!!”って手たたく様子がめっちゃおもろい‥

ほんで、パルちゃんがストローをあげるの、すごい…。親近感のあるお名前で、ちょっと誇らしいぜ

 

解説と考察↓

langint.pri.kyoto-u.ac.jp

この観察日記、おもしろそう。「ただ乗りは許さない」とか・・こんどゆっくりよも。

 

いっぽう人は、”まわりからの評価”を期待する。(←これ自体もおもしろいので、次回くわしく。)その時点では相手にしか利益がないのに、未来を考えて「自分の利益が今後あるだろう」と想像する。


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1歳半でもう身につく力なんだそう。
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相手が要求してないことまで考え、つい自分から手助けしちゃう。この人間の性質が、人間特有の「協力」関係をつくっている。

 

このチンパンジーとヒトの違いのはなしから、以下、私が感じたことを。

人助けにどれほど利益があるのか

人助けすると、きもちいい。なんで?

誰しも、「人助け=いいこと」と脳内にインプットされている。それは、人助けしても、自分へ利益が返ってくるかは分からないからだろう。”win-winにならないリスクがあっても人助けするんだから、えらい!”と考える。

そうした利益の不確実性が、人生経験をとおしてわかってはじめて、「人助け=いいこと」が成り立ってる。だから幼いときには、「人助け」自体は理解してても、その満足感とか自己肯定感はないんだろうな。

利益はときに返ってこない。だからこそ、平和なんじゃないかな

逆に、「自分に必ず同等の利益が返ってくる!」確実にwin-winのルールが設けられたら?

  • 「人助け≠いいこと」
  • 「人助け=一方的な“お返し”の要求=勝手な行為」

になるのかもしれない。たとえば、助けた相手が「多少ありがたいけども、手助けされたら何か利益を返さんとあかんやんか・・」と迷惑に思うかもしれない。

さらに、手助けの内容じたいが相手にとって「ありがた迷惑」だった、いわゆる「おせっかい」の場合、最悪。相手の不利益が2倍になる。

そんな恐怖をいだき、自ら手助けすることが億劫になる。すると、この世から「協力」が少なくなっていく。

「人助けしても、必ずしも報われない」。

そんな不確実性があるからこそ、感謝しあう優しい気持ちで世界がまわって、協力関係がつづいていくんやなあ。これでよかったなあ。

「ひとのため」は「自分のため」になる

協力が盛んになるほど、ひとの能力はおたがいに補填されあって、できることが倍増していく。人間の文明がこんなに発達したのは、発達した脳だけじゃなくて、「先を想像する力」によって身についた「自発的に手助けする」行為のおかげでもあるんだろうなあ。

ひとは、一人じゃたいしたことはできない。

他者と関わり合って、いろんなものが生まれる。

じぶんの不利益を避けるよりも、人助けをして協力関係をゆっくり深めていくほうが、結果的に得られる利益は大きいんじゃないかな。そう信じている。

 

せっかく人間に生まれたのだから、助け合いすることで、

いろんな発見のあるおもしろい人生にしていきたいもんです。

 

仕事ではまだまだ自分のことで精いっぱいやし、くたくたで電車のってたら席譲らなかったりするけど、

できる範囲で+αのこと、やっていければな~!

大切なひとほど、大切にしなくちゃ

「世界で一番大切なものは、なに?」

 いろんな人にこれを聞いてみたい。

わたしの答えは、家族。

 

生まれて24年。いままで家族とずっと過ごしてきた。

この先、健康な両親といられるのは、長くてもこれまでの時間と同じくらい、だ。

おばあちゃんに至っては、あんなに元気でいてくれてるけど

長くてもあと10年、つまり高校~今くらいの時間しかない。

そもそも、人はいついなくなるかなんてわからない。

 

当たり前、だからこそ。


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大切なひとほど、大切にしなくちゃ。

高島大さんという方のこのことばを聞いて、ズガンっときた。これをずっと心においている。

人間、当たり前にいる人ほど、いつでも会えると思って後回しに扱っちゃうねんな。

だから、どんな予定よりも家族を優先させる。残る時間は多くないから。

 

 「離れている」を、メリットにさせる

そんな世界一大切な家族と離れて暮らすことを決意したとき、"このままただ離れたら、後悔する"と悟った。

けれど2年離れてくらして、離れなければわからなかったことがたくさんあった。

すごく客観的な目でみることができて、小さい文句なんか感じなくなった。

家族の良さしか見えない。感謝の占有がすんごく高くなった。

帰ったときは「短くても深いコミュニケーションをとろう」と考えるようになった。

近くの一人暮らしから、遠くの一人暮らしに変わったいま、とくにそう思う。海外旅行とおなじ原理で、距離に比例して「ここにいるのが貴重」と感じることができている。

きっと毎日顔をあわせてたら、そうそう「深いやりとりを」なんて思わんのじゃないかな。

離れることで、メリットはある。というか、メリットにさせるねん。

会ってる時間の長さに比例するんじゃないよ、きっと。

 毎回、なにかで小さく感動させたいな。

「成長したな」「愛してくれてるんだな」って思わせたいな。

電話だってネットだって、もっと活用したい。慣れればあたりまえ。

この便利なご時世を使わなくてどうする。

 

後悔しないために 

たくさん思い出を作れば作るほど、つらくなるのは知っているんだけど

それだけきっと、愛を返していければきっと、後悔することはない。

 

家族がいなくなることは、

私にとって、経験がなくて、世界でいちばん恐れていること。どんなことよりも悲しい。 

考えるだけで、のどの奥がぐっとする。なんでいなくなるの?

必ずいつかやってくるのはしってるんだけど、見ないようにしてきた。

その悲しみに打ち勝てる自信が全く無い。

・・・けどそれは人だから、仕方のないこと。

 

だから会えるうちに、しておきたいことが2つある。

 1.自分が新しい家族をつくる

理由は2つあって、

わたしの大事な家族が生きた証を、次にのこしたいから

この世に産んでくれたから、それが自分の使命だと思っている。

それに、すごく喜んでくれる顔をみたい。

会えるうちに自分の子供を見せたいと強く思う。

というか、単純に自分ごととして、すんごく子供うみたい。

今の家族がいなくなってしまったときに、すこし気はまぎれると思うから

ひとりだったら、もう孤独に打ちひしがれて、生きていけないかもしれない。

 

 

2.濃い思い出をつくり、愛をちゃんと伝える

おばあちゃんとの濃い思い出

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卒業時に、おばあちゃんと2人でニュージーランドを巡った。思い出づくりのために。

ふだん景色ばかり撮るわたしだけど、このときはいっぱいおばあちゃんとの思い出を写真に収めた!

以前からよく団体ツアーで海外旅行はしていたおばあちゃんだけど、

なんでもかんでも自分で選び、自分の足でめぐり、現地の空気・土地・ひとをそのままをまるかじり味わうことに

すっっっごく興奮して感動してくれた。

わたしとしても、今までのどんな旅行より、最高の思い出になった。


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まだまだもっと、スペシャルな思い出をつくりたい

 

ありったけの愛を、ことばにして伝える

 NZにいったのと同じ3月、行きつけのレストランでお母さんとわたしの誕生日会をした。

わたしの誕生日は3月末だから、卒業・新社会人・新天地のお祝いも兼ねてたけど、

ぐうぜんにもわたしの誕生日は、お父さんの20000日誕生日と重なっていた。わたしの365日周期よりもはるかにめでたい記念日。

そんな奇跡をしらないお父さんにもサプライズでお祝いして、両親を祝うことができた。f:id:prcprc:20180218131717j:image

その場で、ありがとうと大好きを家族4人にしっかり伝えた。

まっすぐ言えるほど大人にはなれてへんから、感謝のお手紙をしたためて。

これは、書く方もぽろぽろ泣かずには書けんかったし

さらに、おばあちゃんはおいおいと泣いて読んでくれた。

「あれ、笑ってる?」とはじめ勘違いしたほど、まさに文字通りの「"おいおい"と泣く」を初めて目の当たりにして、それはそれは心がふるえた。

そしてふだんさっぱりとした関係でいる弟が、「ことば」にしてメッセージカードのお返しをしてくれたことに、さらに驚き感動した。

この体験で、素直にちゃんと気持ちを伝えるのは

すっごく大事なことなんだなと身に染みた。

恥ずかしくって直接ことばにして言えんけど、もっと伝えていきたい。

「あなたらしさ」が問われる未来

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「機械」と「ひと」を考える。

これからどんどん人工知能によって「機械」が台頭すると、社会的に「ひと」らしい個性が望まれていくようになると思う。

けれど、流されるまま「機械」にのまれていくと「ひと」はどんどん思考停止していき、個性は弱まっていくんじゃないかな。

という話を。

 

 

社会は「ひとらしさ」を求めていくだろう

第4次産業革命が、すぐそこまできてる。

ものづくり大国ドイツは、6年前から『インダストリー4.0』という国家プロジェクトを進めている。「『自ら考える』スマート工場をいっぱいつくって、製造業の構造の革新すっぞ!」というもの。カギになるのがこの2つ。

このタッグをもってすれば、量・スピード・精度はもちろん、論理的思考とか異分野融合でさえも、たやすいもんだろう。そんなん「ひと」勝てんがな。

てなことで、スーパーかしこい「機械」は、人材としての「ひと」の価値を大きくゆるがす。今ある「ひと」の仕事は激減する。

そこで必要とされる人材とは?人工知能ができないこと、たとえば

  • 創造性。オリジナルの発想力・アイデア
  • 周りのひとに与える人間味。コミュニケーション能力・気遣い・あったかさ。

そんな「ひとらしさ」をもった「ひと」が重宝され、生き残っていくんじゃないかな。


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「ひと」は「わたしらしさ」を求めていくだろう

「みんなと同じ」を求める現代

つぎは社会的ではなく、根本的な人間欲求から「ひと」へのニーズを考えてみる。

ここで、私が好きな"マズローの5段階欲求説"を用いてみる。

http://luckymarch.com/wp-content/uploads/2017/10/659fd3cbb28beaa23ad24c0b28f4cfc5.png

  by マズローの欲求5段階説の解説とマーケティングで陥りやすいミス

 低次元の欲求ほど必須で、それが満たされると、さらに高次の欲求を満たすべく行動する。というもの。

 1- 生理的欲求 (食事・睡眠など)
 2- 安全欲求 (健康・経済的安定・危険回避など。安心・快適な生活を送りたい)

現代、低次の2つの物質的欲求はとうに満たされている。だから、社会的に心を豊かにしたいという高次の精神的欲求が強まる。

 3- 所属と愛の欲求 (外的な社会欲求。集団に帰属し、仲間と繋がりたい) 
 4- 承認欲求 (内的な社会欲求。承認・尊敬してほしい) 

時代の流れ・科学技術の成長とともに人間関係が少しずつ希薄化していった現代、

「つながり」「流行」「みんなと同じであること」を求めるようになったんじゃないかな。

そんな孤独感・社会的不安が追い風となって、欲求を満たすようなサービス・製品が売れていった。

 「みんなと違う、わたし」を求める未来

こんな風潮の中で、社会はやがて「みんなと同じ」ことへの不満や飽きを感じ始めるんじゃないかな?

なぜなら、

そうして自己表現で食べていける社会になっていけば、5段階目の

 5- 自己実現欲求 (自分の能力を引き出し挑戦する)

が働き、「皆とちがう、わたし」が高い価値になる世の中になっていくんじゃないかな。

 尖っていこう。考えよう。

こうして「ひとらしさ」、さらに「わたしらしさ」が求められる社会になっていくなら、

それに向けて何をすべきなのか?

もっとも危惧しているのが、「わたしらしさ」の価値の高まりに反して、「わたしらしさ」を支える個性と思考力が低下してしまうこと。

便利な暮らしになるほど「機械」がなんでもしてくれる。だから、自分の頭で考え表現する力は一層衰えていく。そうして、技術の波に人間性がゆっくりと飲み込まれていき、種としての本能的な不安を抱える社会になるのでは?

「ひと」がつくりあげた「機械」による、バイオハザード…。

特に、和の精神をもつ日本人は危険。調和を重視し、変わり者は排除する、という国民性は皆少なからず感じているんじゃないか。

 

「ひと」「わたし」の社会的価値を高くするには、独創性を高めないといけない。他国に追い抜かれないためにも、個性と思考力を養うフィールド・ツール・教育を意識的に増やしていく必要がある。

 

だからわたしは人の目を気にせず「わたしらしさ」を探していきたい。し、

自分の子供が生まれたら、習慣的にいろんなことを考え、楽しく話しあいたい。

と思うのです。

 

 
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*おまけ*

現代版の欲求モデルとして、Wi-Fi欲求がネタにされてて笑った。たしかにな・・

 http://www.robins-nest.co.jp/blog/assets_c/2016/09/2069_1474952611_0-thumb-1218x1132-1354_280x260.jpg

モノの価値は、ユーザーだけが知っている


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私はふだん、デバイスの開発・設計や、その企画をしている。たのしい。
分野としてはエレキで、「価値があるだろう」と考えた機能をつくっている。
やけど今週、「ああ・・なんて主観で考えていたんだ!」と気がついた。

きっかけは先日、UXデザインの話をききにいったこと。(UX=User Experience)
デザインエンジニアの角銅さんのお話がすごくわかりやすかった。

そこで今回、自分なりのまとめをつらつらと。

1.今までの疑問と、見えた答え

UXデザインってなに?

  • 機能だけじゃなく、ユーザーにとっての価値をつくること。価値検証がいちばん重要。
    • デザインというとシュッとした外観…という先入観があり、エレキがいちばん関わりが薄そうに感じてしまう。
    • けどエレキは機能をつくる張本人であるからこそ、その機能が本当にユーザーにとって価値あるものかを検証し、改善するまでを請け負わないといけない。 まったく他人事ではないんだな!

何やるん?

  • 流れ
    ①どんなユーザーにどんな体験を提供するか?を考える。
    (デザインの方法はかなりロジカルらしい。参考図↓)
    https://www.imjp.co.jp/news-seminar/release/2016/1111/UX_COVER.jpg
    ②機能に落とし込み、プロトタイプを作ってみる★
    ③その機能がユーザーにとってどれほど価値があるか検証!★
    ④③⇔④をくりかえして改善する

***

2.印象に残ったこと

モノに価値があるんじゃない

  • 機能と価値は、別のもの。同じ機能でもユーザーによって価値が変わる。
    つまり、ユーザーに体験してもらってはじめて、価値がわかる

自分の中に答えはないんだ

  • ユーザーの視点にたつのは、すごく難しい。どうしても自分基準になる。
  • ユーザーのほうに答えはある!
    自分は何も知らないことを前提にしよう。
    • ↑のリンクにあるグラフからわかるとおり、ユーザーテストしないと価値はゼロ。やった方がいいに決まってる。

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プロトタイピングしよう。最小限のリソースでね

  • 何を提供したいのか?その必須の要素・コンテンツさえ用意出来れば調査できる
  • 全部つくりこむ必要はない
  • すぐ実装せず検証をはさむ

***

3.その他メモ

ユーザーを中心に話そう!主観は捨てようね

  • 「頼まれた要件内で…」「いかに機能実装するか」にとらわれないで。ユーザーの方を向く。
  • 主観でシナリオ・ペルソナをつくらない
  • 都度ペルソナの話をもちだす
  • 近そうなユーザーを周囲でつかまえてみよう

機能とシナリオに、一貫性ありますか?

  • 最小限の開発で検証/リリースするために。思いつき機能・盛りすぎ、になってないか? そのリッチさ必要?
    • メインシナリオを最小限に。
    • どんな状況でつかうか?を考え、機能の意味・優先度をはっきりさせよう

帽子をかぶりわけよう

  • 違う視点からアイデアをだしていく。シックスハット法
      • ※6つの視点(客観的・直感的・肯定的・否定的・革新的・俯瞰的)いずれか1つの状態でテーマについて考える発想法
    • 別人になりきる。トレードオフの判断ができるよ
      • たいてい重要度とコストで葛藤する場合が多いのでは。そんなとき効果的。
  • ペルソナつくつて壁にはっとくといい。
  • 外観つくるメカの人は特に・・
    • 拡散のときはデザイナー脳、収束のときはエンジニア脳のイメージでプロトタイプとコンセプトを改善していくとよい。
    • デザイナーとエンジニアが同じ方向を、向くためには、ユーザーの方を向くのがいい。
      ぶつからない。

***

4.感想

  • つねづね、機能≒価値と錯覚してしまうことは多い
    • 私をふくめ、部署では機能実現を目指すのに注力していて、UXテーマやユーザーテストをあまり重視しないように見える
      • 今回、「ユーザーテストせんと全然価値わからんやん!めちゃ大事・・」と気づいた。
        すぐにでもUX中心の考え方を浸透させないといけない
    • 主観で価値を判断してしまっていた。良くなかった
      『価値があるか?の答えを持っているのはユーザー』をずっとおぼえておこう!
  • ハードだからどうしてもモノをつくるのに時間がかかる。だからこそ、最低限の要素だけを短い時間でプロトタイプしていく意識を持ちましょう
    • ちょうどその翌日、提案する製品のデモを行った。
      そのサンプルは、品質を考慮せず作り込みはほとんどしてない。機能さえ提示・体験できればよいから。
      それは正解だったんだなと安心した。

* おまけ *
ケチャップの例いいな。わかりやすい。