のんびり、考えてみたこと

地元とものづくりと人間についてのことがすき。ものすごく気まぐれに書く。

京都駅は、遠かった

あれは小学校だったか、中学生だったかのとき

ある日、京都駅に行った。


涙目のふてくされ少女。ピタバだけを持って、家を出た。
どこでもいいから遠くに逃避したかった。ただ、それだけ
なんでふてくされてたのかは思い出せんけど、きっと親に言われたことが気に触ったとか。そんなん。

当時の私は一人で電車に乗ったことがなかった。
ピタパというどこでもいける権利を手にして、ちょっとした冒険。
足を運んだぶんだけ、知らない世界が待っていた。

 

何も考えずにたどり着いた京都駅。見えるのは、新幹線。
"これで日本中へ行けるんや”
目の前の世界が、ぐわーっ、と広がって見えた。
私の「逃げたい」は、そこでシュッと、泡になって消えた。

 

その日、世界を広げてくれた京都駅は
今の私からすれば、見慣れた「近所」。新横浜まで行くことさえ、たいして遠く感じなくなった。
けれどその日の出来事は、「旅」だった。
京都駅への道程と、そこにあった日本全国の入り口は、モヤモヤを吹き飛ばした。


ピタパの電車賃はお父さんの口座から落ちるので、
「用もないのに往復の運賃かけてごめん」とは思ったけど、
ムダだなんて思わんかった。
幼い私にとっての、小さくて大きな旅の切符代だったのだから。 

 

世界の大きさは、変わった

家から徒歩5分の小学校、徒歩20分の中学校が、自分の生活のはじっこ。
実家のベランダから見ていた外の景色は、すごーく広かった。

知らないからこそ、この世界は無限に広かった。
自分が生きる世界以外に、外のはどんな世界が広がってるんだろうか、と
未来がわくわくキラキラしてた。

 

今は日本の都道府県も、世界の各国もインプットされてるし、
今いる場所はどんなとこかGoogleMapでだいたいわかる。

行動範囲が広くなって、世界がわかっていくことは、すごく面白いし大切なことやけど、
その規模感を知ってしまうこと、予想できてしまうことは、つまらない。
千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」のように、ある日突然、異世界に行く・・なんてことはありえない。と潜在的に思っている。

でも、「知ること」が悪だ、というわけではない。
世界を「知ったつもり」がつまらない。

 

「知らない」ワクワクは無限にある

ワクワクは、工夫次第。

ひとつは、知る手段を断てばいい。
歩く辞書じゃないから、本当になんでも知ってるわけじゃない。
インターネットという「無限に知ることができる手段」を持っているだけ。

あの頃みたいに、スマホを持たず、目的もなしに、知らない場所へ足を向けてみよう。
看板にあふれる都会だと、既知の場所の情報や、いる場所の距離感がわかってしまうから、
遭難しない程度に情報のない場所へ。


もう一つは、世界はなにも空間だけの話じゃない。
知らないことは無限にある。
今やってる仕事や好きなことを足がかりに、いろいろ知っていく。

そう思ったら、もうワクワクは無限にある。
知らないことのほうが多いんやから。

人生、無限に楽しめる。

なんて幸せで嬉しいことでしょう!

という話。