のんびり、考えてみたこと

地元とものづくりと人間についてのことがすき。ものすごく気まぐれに書く。

「決断」を楽しくしたい

未来館でみた、この図を見てギモンに思った。

ん~・・?「決断」って不快なん?


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この図は、「すべての『決断』が不快だ」ということではなくて、「ときに不快になる」という意味かなあと解釈している。

ひとつしか選べない状況の場合は、ほかの選択肢を捨てるということ。「不安」≒「不快」がうまれるのはしかたない。

 

でも、決断することはいいことだと思う!

行動に移せるから。環境が変わるから。決断しなきゃ何もかわらない。

だから、決断したときには、脳で「快」を感じるような物質が発生してほしいと思う。

 

快・不快は何で決まるか?

「快か・不快か」の判断は、「生存に有利か・不利か」の綱引きで生まれる。その有利・不利の基準は、人による。

なぜなら、その基準は経験にもとづくから。

これまでの人生をとおして、変化を繰り返してつくられた。

ちなみに、「快・不快」は見える。扁桃体という細胞の反応でわかるらしい。細胞の反応の規則性が、人生経験でつくられるってふしぎやなあ。

決断=快 と感じるには

じゃあ、「決断すること」=「生存に有利」と感じるためにはどうすればいい?

きっとその判断基準は、子どものときの経験が大きく影響する。

「自分で決断する」ことが「いい結果をうんだ!」という経験を根付かせること。

 

基準のない、子どものために

1.自分で決断すること。

わたしの両親はわたしの習い事・受験・就職などについて、自由に決断させてくれた。私が行きたいところを見つけると、”お~、ええんちゃう?”という具合に。そのことにすごく感謝しているし、自分に子どもができても自由にさせたい。「自分で決めるのが当たり前」という感覚を。

親になんでも強制される家庭環境やと、「自分なんて・・・」自己肯定感が弱くなる、ということもどこかで聞いたなあ。

2.そして大事だと思うのが、それがどんな結果に転んでも、その決断は結果的に良かったと感じてもらうこと

結果がよくなるよう応援し、結果がどうあろうと決断したこと自体をほめることはできる。

 

快・不快の基準はかわっていく

いっぺん「不快」に転んでも変わりうる。ふしぎ。

思えば、わたしはなす入ってるメニュー、絶ッッ対頼むけど、いつからナスがすんごい好きになったんやろ?


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ねぎとか白菜とかエリンギとかも。ぜんぶ子どもの時はおいしいなんてカケラも思ってなかった。

 

大人になって、好みが変わるきっかけは2つあると思う。

①体の変化、かもしれない。

特に「食べること」は、体に物質を直接投下して細胞が反応をおこす行為だから、体の反応のしかたが変わったりしそう。

なんかイイ物質が生まれる体に徐々に変わっていって、「生存に有利」→「ナスおいしいやん!?(快)」になったんかな?しらんけど。

そしてもうひとつが、

②「不快」の経験則がひっくり返るような「好きかも!?」体験

 かなと思う。

 

おとなになったわたしが、「決断」をもっと「快」にするには?

もうある程度つくられた「快・不快」の判断基準も、変えていける。

ただし「決断」という行為で ①体の反応が変わるのは無さそう。「決断」は、食べることほどには身体に直接影響しなさそうだから。

だから、②の「良いかも!?」体験をもっと生むことやな。それには、

  • 「えいやっっ」決断する勇気をもつこと と、
  • その決断を自分で正解にする。いい結果にころぶように力を注ぐこと

を意識していこう。

 
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「決断するといい結果がうまれた!」

そんな経験が積み重なって、決断はたのしいと直感的に思えるほど、

おもしろく過ごしていけそう!

 

分岐点にたったときはたくさん悩むし、固定概念にとらわれるけど、

これからもきまりきったレールはきにせず、選択していこ。

就職をした今も、この選択を正解にするために、吸収して利用しまくってこ〜。